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 1949年/昭和24年〈第69回卒〉

1949年 (昭和24年) 第69回卒
第31回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 我々は八幡中央高校として名称が変わった年である。3年生6名、2年生8名、1年生9名と去年よりもたくさんの部員数で練習や試合に臨めることとなる。この年、1年生大辻が入部。大辻は卒業後、同校2人目となるプロ野球選手となる。

最後の夏を振り返って

この年の選手権大会は県内11校が参加。八幡中央高校は1回戦から圧倒的な強さで決勝まで進む。しかし2年連続決勝で敗退しているため是が非でも勝たなければならない、どうしても負けられないという強い気持ちが決勝戦も快勝し、昭和6年以来18年ぶりの優勝を成し遂げることが出来た。この破竹の勢いで京津大会に臨み京都代表の平安にいどんだ。序盤、点の取り合いとなり5回終了の時点で4 - 4の接戦となっていたが、後半気負いからか野手に固さが見られ守備の波掟、7失策で4 - 8でまたしても平安の大きな壁に屈したのであった。この決戦の最中に平安3回の攻撃、八商ショートライナーの捕球を巡り、審判の判定を不服とし観衆がグラウンドに乱入するということがあり、二塁審判を不服として試合中断、ランナーすべての生還が認められ3点の失点と相成る。残念ながらこのようなことが敗戦に繋がってしまう事態ともなったことは言うまでもない。

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 彦根東 1 - 2 ●

1回戦 対 大津 8 - 1 ○

2回戦 対 草津 12 - 1 ○

準決勝 対 彦根 2 - 3 ●

1回戦 対 湖南 12 - 1 ○

2回戦 対 湖北 8 - 0 ○

準決勝 対 長浜 13 - 4 ○

決勝 対 大津 7 - 1 ○ 優勝

全国高等学校野球選手権 京滋大会

決勝 対 平安 4 - 8 ●

メンバー

部長

​監督

川崎 忠

井狩 忠之

マネージャー

大橋 重次

選手

山本 昭治  菅原 淳  中村 至良

石井 健三  鈴木  勲

 1948年/昭和23年〈第68回卒〉

第30回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 この年から全国中等学校野球選手権大会から新制全国高等学校野球選手権大会となり、高等学校野球連盟が発足した記念すべき年であります。また、学制改革を記念して、現在に受け継がれている大会歌『栄冠は君に輝く』が制定された年でもある。

 井狩野球の本格的なスタートの年であり、1年生4名・2年生4名・3年生4名合わせて選手12名とマネージャー1名、計13名と非常に少ない部員での年代である。

3年生の3人の強打者に引っ張られ、1年生・2年生が育成、成長していきました。

 

 我がチームは夏の大会が始まる前の県下予想では到底決勝戦まで残るチームとしては評価されていませんでした。しかし、春季大会後、北陸遠征(敦賀・武生・金沢)でチームワークと実力向上を目指し、強化試合を行い、夏の大会前には、優勝を目標にバンドやスクイズ100%成功の猛練習をしたものでした。

 最後夏の選手権大会には県内17校が参加した。部員が少なく、1年生バッテリーで一回戦から順当によく勝ち上がり決勝戦まで駒を進めていきました。決勝戦の相手は2年連続決勝戦で戦う彦根東高。また、3年連続で対戦する相手。3年連続で負けることの屈辱は味わいたくない思いで決勝戦に臨んだ。この日、井狩監督が初戦からしておられた眼帯の脱着が優勝戦当日のバンド、スクイズのサインだと聞かされた時は「敵を欺くのは先ずは味方から」と非常に感銘を受けたことを思い出します。

 歴史ある伝統をバックに藤本投手の試合度胸、頭脳的投球とチームワークで練習通りの積極的なプレーで戦いましたが、残念ながら接戦の末、惜敗してしまう。

2年連続準優勝に終わりあと一歩のところでまたもや優勝を逃してしまった。負けはしましたが、悔いのない練習の成果が発揮され、悔いのない野球が出来ました。

それに八商ファンの嵐のような声援を受けたことその感動は、今でも心の中に刻まれている。

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

なし

1回戦 対 比叡山 16 - 7 ○

2回戦 対 彦根南(不戦敗)●

2回戦 対 膳所 8 - 0 ○

3回戦 対 高島 3 - 1 ○ 

準決勝 対 大津 3 - 0 ○

決勝 対 彦根東 1 - 2 ●

メンバー

部長

​監督

川崎 忠

井狩 忠之

選手

富江 昇  塚本 貞夫  長谷川 忠良

尾田 茂男

 1947年/昭和22年〈第66回卒〉

第29回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場
チーム紹介

 「歳月人を待たず」若き日早くも夢のように過ぎました。全国野球大会が戦後復活2年目の年であります。この年、全国での参加校が1125校となり初の大台を突破することになる。昭和22年、この年が最後の中等学校野球大会であった。

 県内公式戦での記録はないものの、中等学校野球大会の春季大会藤井寺球場では、八幡商 森本投手、京都一商 北本投手(後に太陽ロビンス)の非常に見ごたえのある投手戦。だが、延長11回0 - 1で敗れる。しかし、八幡商 森本投手の実力がこの試合で高く評価されることになる。この大会には彦根工、彦根東も出場している。

 その後、夏の大会を迎える。第29回全国中等学校野球京津大会滋賀県予選は15校が彦根球場に集結して行われました。1回戦は水口中、2回戦は八日市中、準決勝は膳所中と大量得点を挙げ大差で決勝戦まで勝ち上がってきました。決勝戦の相手も決勝戦まで圧勝しての決勝進出。その相手は去年、準決勝で2 - 28の大差で大敗している彦根中でした。試合展開は両校とも追いつ追われつの激戦の末、5 - 9でまたもや彦根中に惨敗する結果となってしまう。この年の森本投手は、1975年から2001年までの26年間、第3代八幡商業野球部OB会長を務められる。

年間大会戦績

全国中等学校野球京津大会

1回戦 対 水口中 16 - 2 ○

2回戦 対 八日市中 29 - 5 ○

準決勝 対 膳所中 17 - 9 ○

決勝 対 彦根中 5 - 9 ●

メンバー

部長

​監督

和田 忠三郎

井狩 忠之

マネージャー

鎌倉 弘

選手

河井 清   森本 泰弘   川崎 利夫

西村 重夫  藤本 利治   橋本 一夫

松浦 五郎  村井 秀雄

 1946年/昭和21年〈第65回卒〉

第28回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場
チーム紹介

 長い戦時が、前年の1945年8月15日に第二次世界大戦は終戦する。本来ならば荒れ果てた混乱している世の中で、まさか翌年に野球大会が開催出来るとは誰もが思ってもいないことであった。しかし、この世の中であって、これからの若者たちに希望や明るい未来を取り戻させる近道は野球の復活しかないと考えられたと記されている。

 

 5年ぶりに復活する第28回大会は13校の参加校で開催される。1回戦の初戦は比叡山中に大勝をするが、逆に準決勝は彦根中に惨敗してしまう。記録的な勝利、敗戦をする大会となった。

 また、これまでなら二次予選は各府県2校ずつが出場して甲子園を争っていましたが、この年からは滋賀県・京都府から各1校ずつが参加し、甲子園の出場を争うことになる。

この大会を制した膳所中は京都二中と2次予選を行い0 - 3で敗れる。

年間大会戦績

全国中等学校野球京津大会

1回戦 対 比叡山中 37 - 0 ○

2回戦 対 今津中 12- 2 ○

準決勝 対 彦根中 2 - 28 ●

メンバー

監督

井狩 忠之

選手

明隅 昭一  禿 一孝

 1945年/昭和20年〈第64回卒〉

1945年 (昭和20年) 第64回卒
戦争により休止
メンバー

選手

小泉 龍太郎

 1944年/昭和19年〈第63回卒〉

1944年 (昭和19年) 第63回卒
戦争により休止
メンバー

選手

竹村 清一  辻野 洋  馬場 源一

平内 文雄  横田 寿夫

 1943年/昭和18年〈第62回卒〉

1943年 (昭和18年) 第62回卒
戦争により休止
メンバー

選手

門川 邦三  田辺 昭二  古谷 基一

吉田 中夫   山野 貞夫

 1942年/昭和17年〈第61回卒〉

1942年 (昭和17年) 第61回卒
戦争により休止
メンバー

選手

小川 亮二  川島 誠一  正円 文雄

田子 一民  中川 貞次  浜田 一男

林 佑    松原 和夫

 1941年/昭和16年〈第60回卒〉

1941年 (昭和16年) 第60回卒
第27回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場
チーム紹介

 第27回大会も、前年同様10校の参加数で開催されるが、予想もできぬ事態となる大会であった。八幡商は、何と優勝した膳所中に1回戦を僅差で敗れてしまう。

 この大会決勝戦は、3連覇に挑む大津商と6度目の優勝を狙う膳所中との対戦であった。白熱した一戦は0 - 0のまま延長戦に入り、死闘を続ける中、延長14回に膳所中が1点を奪い、接戦をものにし優勝する。しかし、2次予選や甲子園の全国大会がこの年から戦時のために中断となる。ここから中等学校野球大会は暗い5年間を過ごすこととなる。

年間大会戦績

全国中等学校野球京津大会

1回戦 対 膳所中 4 - 5 ●

メンバー

選手

加藤 健一  染谷 定男  土川 平一郎

西 直三郎  西谷 久男  平内 喜一郎

前田 実   平岡 清   中澤 治

 1940年/昭和15年〈第58・59回卒〉

1940年 (昭和15年) 第59回卒
第26回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場
チーム紹介

 第26回大会は、前年同様10校の参加校で開催される。1回戦は勝利するものの続く準決勝で準優勝した彦根中に敗退してしまう。この大会を2年連続優勝した大津商と準優勝の彦根中が二次予選に進出するが、両校共またもや大差で3年連続無得点での敗退となる。この年は、なぜだかわからないが、1年に2度卒業している。

 そして、この年の荒川昇治選手は八幡商から初のプロ野球選手となる。昭和鉄鋼を出て、昭和22年23歳でプロ野球・太陽ロビンスに入団することになる。

年間大会戦績

全国中等学校野球京津大会

2回戦 対 神崎商 17 - 0 ○

準決勝 対 彦根中 0 - 7 ●

メンバー

選手

上田 信   田原 英   村田 祥二

荒川 昇治  小林 彦一  小森 芳一

佐田 喜三郎 杉本 清   脇坂 勉

斉藤 直治

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