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 1979年/昭和54年〈第99回卒〉

1979年 (昭和54年) 第99回卒
第61回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 1学年5名であったこともあり、仲間意識が強く、少数精鋭という思いで野球に取り組んでいた。下級生にも助けられ、まとまりのあるチームであった。

1979年 (昭和54年) 第99回卒_2
最後の夏を振り返って

 1回戦で敗退してしまったこともあるが、新チームからの1年間は特に月日が流れるのが早く感じられた。現役の時は、辛い思い出ばかりであったが、いざ終わってしまうと、なつかしさや、高校野球のすばらしさが湧いてきました。

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 守山 7 - 8 ●

1回戦 対 八日市南 12 - 6 ○

2回戦 対 野洲 3 - 7 ●

1回戦 対 守山 3 - 13 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

選手

安田 博也  松居 伊三美  伊藤 正徳

大西 藤夫  塚本 和弘

 1978年/昭和53年〈第98回卒〉

1978年 (昭和53年) 第98回卒
第60回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 夏の選手権大会の今年は記念大会の年で優勝すれば甲子園という年代でした。なんとか甲子園出場に近づこうと毎日の厳しい練習に取り組んだ。投手力・攻撃力ともまずまずであったチーム。練習試合の結果もそれなりに悪くはなかった。学年の部員が少なく、仲は良かったが、しかし選手起用などでやりくりが大変であった。

最後の夏を振り返って

 夏の大会ここ何年間か初戦敗退が続いている。チームも3年生、下級生とまとまってきていたので、波に乗ればと大会に臨んだが、草津高にまさかの敗退。今年のチームは負ける時は大差で負けてしまう。精神的に弱い部分が出てしまっていたのであろう。残念ながら今年も負けはしたが、八商の野球部員であったこと、3年間やり遂げたこと、高校時代の良き思い出となっている。

1978年 (昭和53年) 第98回卒_2
年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 近江兄弟社 9 - 3 ○

2回戦 対 高島 6 - 3 ○

3回戦 対 日野 1 - 8 ●

1回戦 対 長浜商工 4 - 3 ○

2回戦 対 能登川 1 - 11 ●

1回戦 対 草津 2 - 9 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

大橋 二三代 溝井 久美子

選手

青木 勝彦  岡部 得晴  福本 幸弘 林 浩太郎  森 岩雄   小泉 憲次

伊崎 努

 1977年/昭和52年〈第97回卒〉

1977年 (昭和52年) 第97回卒
第59回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 八幡商の校章を胸につける事を誇りに入部したものの、現実は各学年メンバーも揃わない状態でした。また、そのような状態ではありましたが、上下関係が非常に厳しく、下級生は早朝からと昼休みと小石だらけの第二グラウンドの整備に明け暮れた毎日でした。練習時には、今では考えられない、水を一滴も飲めなかったそんな時代でした。

 その後、数名メンバーが入れ替わり3年生は7名になり、最後は後輩の力を借りて戦ってきたことを思い出します。弱小時代で八幡商の低迷期ではあったものの、部員一同、苦節を胸に伝統八商の魂を繋いだ最高のチームでした。

最後の夏を振り返って

 部員の不足によりここ何年間か苦しい時代が続いています。上位進出どころか公式戦で勝つことがどれだけ難しいことか痛感する。来年からは60回の記念大会であり、1県1校となることを考え、この年前哨戦ということで各チームとも大いに燃えていた。

 しかし我ら八幡商は簡単に1回戦敗退となる。勝って歌いたかった校歌!3年間、一度も校旗を仰げず高校野球が終わったことが、今でもそのことだけが悔しくてなりません。

1977年 (昭和52年) 第97回卒_2
年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 虎姫 12 - 2 ○

2回戦 対 八日市南 15 - 0 ○

3回戦 対 水口 5 - 4 ○

準決勝 対 伊香 0 - 10 ●

2回戦 対 彦根東 1 - 4 ●

1回戦 対 堅田 2 - 6 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

金子 由利子 古谷 弘美

選手

黒瀬 定二  山極 幸雄  中村 正剛

峠岡 博士  土田 雅史  小井戸 善光

平井 幸造

 1976年/昭和51年〈第96回卒〉

1976年 (昭和51年) 第96回卒
第58回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 私たちの学年は、1年生時の入部が9名(マネージャー2名含む)であったが、途中で1名退部してしまい最終的には2名で野球部を卒業することになる。2年生の秋には第2グラウンドが完成し、毎日毎日石拾いやグラウンド整備に明け暮れていた。大変であったことを思い出す。野球部3年生は、短所としておとなしい選手が多かった。長所はおとなしすぎて仲がものすごく良かった年である。

1976年 (昭和51年) 第96回卒_2
最後の夏を振り返って

 甲子園出場することを夢見て(高校野球において誰もが抱く夢)野球部に入部したが、毎日の練習が非常に厳しかったことばかりが思い出される。最後の夏の大会も春に続いて初戦で負けてしまう。終わった後は悔しさがこみあげてきたが、正直ホッとした思いもあった。苦しかったけど、今となれば八幡商で野球を3年間やってきて本当に良かったとつくづく思う。今後も強い八幡商を引き続き応援していきたい!

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

出場なし

2回戦 対 能登川 1 - 9 ●

1回戦 対 長浜商工 0 - 5 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

将亦 幸子  波戸 昌子

選手

水野 隆一  西村 義次  林田 広幸

寺井 一雄  今若 忠司  駒井 国郎

 1975年/昭和50年〈第95回卒〉

1975年 (昭和50年) 第95回卒
第57回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 1年生の時、6人全員が退部するところから我々は出発した。この学年は、全体的に小粒ではあったが、非常にまとまりのある学年で決して諦めないチームであった。

最後の夏を振り返って

 昭和50年この年、金属バットが正式に許可され春は投手力と言われていた今までの大会も様変わりした年でした。夏の選手権大会、堅田高との1回戦、堅田にはあの大会ナンバーワンピッチャー、都裕次郎(中日ドラゴンズ ドラフト1位)がいた。2回戦は両投手とも調子が良く、投手戦となり0 - 0の日没引分けとなり、再試合での決着となった。しかしながら再試合では互角の戦いが出来ずに、残念ながら1回戦敗退という結果でしたが、皆で精一杯頑張った夏でした。

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

地域リーグで敗退 

1回戦 対 大津商 12 - 10 ○

2回戦 対 瀬田工 0 - 14

1回戦 対 堅田 0 - 0 △(7回日没引分)

再試合 対 堅田 0 - 5 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

選手

竹中 正剛  辻 幸雄  地海 善夫

河内 英之  西村 聡  小宮山 正

 1974年/昭和49年〈第94回卒〉

1974年 (昭和49年) 第94回卒
第56回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 野球部員が減少する時代であり、新入部員は5名と少なかった。そして、第二グラウンドに練習場が移ったため、練習したことよりも、石拾いから始まり、グラウンドで練習がまず出来る環境作りからやっていた思いが強い。早朝のグラウンド整備は1年生だけだったので、大変であった。新チームになり、下級生の力を借りて試合をすることが出来ましたが、これといった成績は全く残せませんでした。

最後の夏を振り返って

 夏の選手権大会を優勝すると、京都代表と滋賀県代表が対戦し勝ったところが甲子園に出場していたが、この年から優勝すると滋賀県代表と福井県代表とで甲子園出場をかけて戦うことになった年代である。しかし、最後の夏はそこまでにたどりつくことなく、全く力が発揮できずに0 - 13と能登川高に惨敗してしまう。この試合いまだに悔いが残っている。残念でならなかった。

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

本大会出場なし

1回戦 対 瀬田工 12 - 3 ○

2回戦 対 膳所 9 - 11 ●

2回戦 対 能登川 0 - 13 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

奥村 文子  北川 繁子

選手

堤 栄次   田中 孝和  小林 明和

重田 安信  川島 暢   深尾 幸造

高本 陽一

 1973年/昭和48年〈第93回卒〉

1973年 (昭和48年) 第93回卒
第55回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 我々の学年は、選手8人、マネージャー2名の計10名での学年でした。全体的に小粒な選手が多く、守りはセンターラインを3年生で固め、まとまりのあるチームでした。ただ、右ラインに難があったのが気がかりな点でした。投手は当時ではめずらしい、変則モーションのサウスポーで打ちづらいピッチャーでしたが、完投出来る能力がなく、スタミナに難がありました。打線は、松浦・西川・清水のクリーンアップが強打で山本・望月の1、2番コンビは出塁率が高かったです。全体的には、しぶとく粘り強いチームでした。

最後の夏を振り返って

 この年は55回記念大会であり、優勝すれば甲子園に行ける大会でした。夏の大会は秋・準優勝、春・優勝の大本命比叡山高が不祥事で出場出来ず、どこが優勝してもおかしくない戦国の大会となった。我々にもチャンスが大いにあった年でした。3回戦の守山戦では、1回裏に2番打者が負傷退場となり、大きなハンディをかかえての戦いとなりました。

 その後、相手エースを引きずり降ろし、リードする展開でしたが、終盤に自軍のエースに疲れが見えはじめ、追いつかれてしまい、延長までもつれ込んだ戦いとなりましたが、延長戦の末、残念ながら敗れてしまいました。しかし、3年間伝統ある八幡商で良き仲間と共に野球が出来たことは、人生の大きな財産となったと思っています。

1973年 (昭和48年) 第93回卒_2
年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

本大会出場なし

2回戦 対 長浜北 3 - 6 ●

2回戦 対 瀬田工 10 - 3 ○

3回戦 対 守山 7 - 11 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

伊関 弥寿子 豊田 美津子

選手

山本 久隆  石崎 政則  西川 政美

清水 喜弘  西川 茂弘  松浦 福雄

望月 茂   増田 和幸

 1972年/昭和47年〈第92回卒〉

1972年 (昭和47年) 第92回卒
第54回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 高度経済成長の中、大学へ進学するために普通科の高校に男子生徒が集まり、本校の男子生徒は、70人になり2年生から女子だけのクラスが2クラスできた。そして、女子マネージャーが2名希望して入部してくれ、試合のスコアーをつけたり、部室の掃除をしてくれた。 

 また、「びわ湖放送」が開局されて、全試合が生中継され、マネージャーが解説した。時代は、「グループサウンズ」全盛期で、長髪ブームの中、丸刈りを嫌がり最初は数名の入部があったが、途中退部者もあり最後には5名になった。文武両道で、勉強にも精を出し4名が大学に進学し、内1人は、理工系の大学へ進学した。

最後の夏を振り返って

 前年度より、伝統ある背番号1を背負っているエースで4番の橋本を中心にしたチームである。(橋本は関西6大学の大阪商業大学へ進学し、3、4年生と全国大学選手権で準優勝し、その後社会人野球の河合楽器に入り都市対抗野球で活躍した。)秋・春の優勝校である膳所高を目標に練習に励んできた。2回戦の草津高戦では、12 - 0(7回コールドゲームのため参考記録ながらノーヒットノーラン)を記録した。しかし、準々決勝で前年度の甲子園出場校である比叡山高に1 - 4で惜敗した。

年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 能登川 0 - 1 ●

1回戦 対 堅田 6 - 3 ○

2回戦 対 長浜北 4 - 2 ○

3回戦 対 膳所 1 - 2 ●

2回戦 対 草津東 12 - 0 ○

3回戦 対 比叡山 1 - 4 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

好田 栄子  榎並 みどり

選手

池田 和夫  橋本 清嗣  西川 順一朗

藤井 一夫  土田 美治

 1971年/昭和46年〈第91回卒〉

1971年 (昭和46年) 第91回卒
第53回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 チーム平均身長168.6cm、体重61.3kgと小粒であったがしぶとさはどこにも負けない、明るいチームワークの良い学年でした。2年生バッテリーであったため経験不足が否めないが、打撃は一発長打よりも短打でコツコツと当てていくタイプが多い。我々の年に八幡商初の女子マネージャーが誕生した!

最後の夏を振り返って

 春季大会は公式戦初勝利するも秋、夏を制した比叡山に3回戦で大敗する。最後の夏に掛けるが、春からの対戦成績は6勝8敗2分とあまり振るわない。しかし夏選手権大会では、伝統のしぶとさを存分に発揮して上位進出を目指し基本練習にじっくりと取り組んだ。主戦橋本投手は春までは上手投げだったが、下手投げに投法をかえ大会に臨む。打線は2割5分と3割打者が誰一人いない。

 投手力、打力と今ひとつなため不安を残すが、内外野はよく鍛え上げられており接戦に持ち込み、守りから勝利を引き寄せる戦いが出来ればと初戦の守山戦を戦った。しかしながら完封で敗退する結果となる。しかし最後までキビキビとした試合をやれたことは誇りに想う。

1971年 (昭和46年) 第91回卒_2
年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 伊香 1 - 9 ●

1回戦 対 甲賀 7 - 4 ○

2回戦 対 膳所 4 - 3 ○

3回戦 対 比叡山 5 - 12 ●

1回戦 対 守山 0 - 5 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

マネージャー

速水 幸子

選手

青木 錠司  金田 修   井上 悟

柳生 正行  大橋 長男  榎並 明

谷 光雄

 1970年/昭和45年〈第90回卒〉

1970年 (昭和45年) 第90回卒
第52回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場
チーム紹介

 この年のメンバーは走・攻・守ともレベルが高く、バランスのとれたチームでした。レギュラー全員が3年生でチームワークもとれ、甲子園出場を目標に一丸となり、練習にも試合にも全力疾走で野球に夢中になっていた強いチームでした。秋季大会優勝し近畿大会出場、1回戦突破できれば甲子園というところでしたが、不運にも強敵平安と当たり敗退してしまう。

 春の大会では、滋賀県で初となる延長18回引分再試合を経験。その再試合でも延長12回の死闘を演じるという経験をし、準優勝。夏には優勝し平安に負けた借りを京滋大会で必ず晴らすという想いで、最後の夏に掛けた。(通算成績 32勝9敗3分)

最後の夏を振り返って

 秋季大会優勝、故障者が出た春季大会も準優勝と実力を発揮していた。打倒平安、甲子園出場を目標に日々厳しい練習にも耐え、夏最後の大会に臨む。1、2回戦は順当に快勝するが、続く伊香戦、左の1年生投手を攻略できず、まさかの敗退。私たちの高校野球が終わりました。チーム力もあり平安と対戦するまでは負けられなかったが、最後は非常に悔いの残る戦いであった。

1970年 (昭和45年) 第90回卒_2
年間大会戦績

秋季大会

春季大会

選手権地方大会

1回戦 対 高島 8 - 1 ○

2回戦 対 膳所 3 - 2 ○

準決勝 対 彦根工 7 - 4 ○

決勝 対 比叡山 22 - 8 ○ 優勝

近畿地区高等学校野球大会

1回戦 対 守山 6 - 4 ○

2回戦 対 大津商 2 - 0 ○

3回戦 対 石山 2 - 0 ○

準決勝 対 彦根工 2 - 2 △

再試合 対 彦根工 5 - 3(18回)○

決勝 対 比叡山 1 - 6 ●

1回戦 対 近江 8 - 2 ○

2回戦 対 高島 9 - 0 ○

3回戦 対 伊香 2 - 3 ●

1回戦 対 平安 1 - 7 ●

メンバー

部長

​監督

三露 晋

沢村 啓二

選手

岩佐 武司  中村 勝司  小林 久仁男

藤谷 善一  田中 景寿  上野 恵二

石塚 平和  千田 一人  岩佐 武司

麻原 育夫  仁保 義治

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